図書館訪問最後に図書館で借りた本って、まだ覚えてる?
…… 『カンパー100年1886-1986』 機カンパーは、かつて非常に危険な場所であり、 立入禁止区域であったと述べられています。鉱業 が発展する前は、野生動物や植物に満ちた深い 森林に囲まれていました。採掘調査のために周辺 を探検した多くの人々が、2度と戻って来ないとい うことがしばしばありました。探検に出ても、適切 な診断や治療が受けられず、病気に屈してしまっ たのです。 機 僕たちの祖先は、カンパーの探索や開発に命 を捧げ、道路や家を造りました。彼らは、人口の増 加を支えるために、さらに鉱業を盛んにし、インフ ラの基礎を築きました。暮らしぶりが次第に良く なるにつれて、客家語で「禁浦(カンパー)」、立入 禁止区という意味の町の名は「金寶(カンパー)」、 金と宝による繁栄という意味の名に変わりました。 こうして、今カンパーは繁栄の地として知られるよ うになりました。 若い女性は写真を撮るのが大好き 機60年代のカンパーは非常に保守的でした。ファ ッショントレンドがより露出度の高い服に変わっ ても、女性たちはその流行を追うことができませ んでした。そんな中、彼女たちは日にちを決めて 集まり、スカートをはいてカンパーの一番有名な 庭園で会うというアイデアを思いつきました。スカ ートを紙袋に包んで庭園に向かい、着いたらそれ に着替えればいいのです。 機 彼女たちは写真を撮り終えたら、また着替えて 家に帰ります。普段は露出の多い服を着ることが できないので、それらを身に着け、写真を撮ること で満足でした。この活動は広まっていき、間もなく 週末の多くの女性の流行となりました。当時、白黒 写真の現像は1枚あたり1ドル、カラーだと1.5ドル かかりました。当時は高価でしたが、多くの女性が写真を撮りたがりました。 機他にも写真を撮るのが好きな人たちがいまし た。既婚の女性たちは、悪運を写真に吸い取らせ るために写真店に行きました。彼女たちはギャン ブルに行く前に、カメラに悪運を吸収させる必要 があると強く信じていました。そうすることで、カジ ノで勝つことができました。果たして、こんな魔法 が通用するのでしょうか。 機 しかし面白いことに、しばらくすると、女性たち は勝敗にかかわらず、自分の写真を撮ってもらう ために写真店に行きました。きっと撮られるのが クセになったんでしょうね。 カンパーの塹壕とその記憶 機カンパーは、第二次世界大戦の影響を直接受 けてしまった町でした。飛行機、弾丸、爆弾、兵士の行進がカンパーの静けさを乱しました。イギリ スと日本の戦争中、地元の人々はカンパーの町か ら逃れました。 機 第二次世界大戦前から、日本人はカンパーにス パイを送っていました。カンパーに来た彼らのほ とんどは、日本製品を売る店、富裕層や王族のた めの私立学校、写真店、さらには情報を収集する ための売春宿まで経営し、周囲の地形を詳しく知 り、地図を描き、カンパーとつながるルートに精通 しようとしました。 機 娼婦は全員日本人で、全部で10人いました。そ こ で は マ ッ サ ー ジ と ス パ サ ー ビ ス が 提 供 さ れ 、売 り上げは好調でした。裕福な人々、特にイギリス兵 はそこに行くのが楽しみでした。 機 その娼婦が奉仕をしているとき、彼女たちはし ばしば「どの部隊の出身?」、「責任者は誰?」、「どこに駐屯しているの?」、「どのくらいそこに駐屯し ているつもり?」、「部隊数は全部でいくつ?」、「あ なたの部隊は何人?」などと尋ねました 。これらの 質問は会話の中で自然に行われたようで、兵士た ちは知らず知らずのうちに秘密を漏らしてしまっ たのでした。 機 日本のスパイが経営する写真店は、カメラや印 画紙のほとんどが日本から輸入されており、写真 を現像する人々を惹きつけるために安い価格で 販売していました。ほとんどの場合、顧客は金銭的 に余裕のあるイギリス兵で占められていました。 彼らは、どこにいたか、誰と一緒だったかといった 情報を日本人が写真から収集するのを、間接的に 許していたのです。 機 写真店のスパイは、重要だとみなした写真を数 枚焼き増しし、それらの写真はその先の計画のために日本に送られたのでした。 ……
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AuthorLam Ching Fu Archives
January 2024
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