帰り道Beruas(a ブルワス)-Taiping(a タイピン)
バスが小学校の前に停車しました。かなりの数の生徒がどっとバスに乗り込み、バス全体が賑やかになりました。僕は、すぐ前に座っている男の子に惹きつけられました。その子はノートを手にしていました。そして「郵便局、寺院、モスク、警察署」など、今日学校で学んだと思われる英単語を口に出して言うのが聞こえました。 機 10分後、少年は立ち上がってベルを押しました。まもなくバスはスピードを落としました。 運転手はこの子がどこに住んでいるかを知っているのでしょう。減速しながら停まった場所 はバス停ではなく、少年の家のすぐ前でした。 機 少年がバスを降りて家に向かっていくのを見て、僕は思わず写真を撮りました。この写 真はテレビのコマーシャルや、映画、ドラマの1シーンではなく、実際の生活の中の1シーンです。バスの旅は本当におもしろいです。ここでは毎日いろいろな光景が繰り広げられてい ます。
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「地元の人たち」との出会い洞窟を抜けると、小さな森が広がっています。 それは、まるで暗い穴の中から鮮やかな緑の世界 に飛び出したかのようでした。この公園を散策し ていると、東屋に辿り着きました。ここで僕は何人 かの女の子がおしゃべりしているのを見ました。 辺 り を 見 回 す と 、こ の 公 園 に は た く さ ん の 東 屋 が あり、川が流れ、子供たちが泳いでいるのに気づ きました。この公園を探索して、僕はここが結婚写 真の撮影に最適な場所だと思いました。空気が新鮮で、誰もが吸収できるポジティブなエネルギー で満ちています。僕はこのパワースポットが、とて も気に入りました。 迷子になる! 機ポジティブなエネルギーでたっぷり満たされた 後、すぐに僕は来た道を戻り始めました。帰り道で は別の角度から石灰石を見ることができて、また 別の発見がありました。でも帰り道はいつも短く 感じられるものです。間もなく洞窟の入り口に辿り 着いてしまいました。そこで僕は展望台まで通じ るコンクリートの階段を見つけました。僕はケラム 洞窟とカキ・ブキッを別の視点から見ることがで きるのではないかと、迷わず階段を上りました。 機 階段での登りは楽でしたが、展望台では前の景 色が木々に遮られていたので、僕はさらに上まで 行ってみようと思いました。その先には階段がな く、鋭い岩があったので注意が必要でした。しかし、 最終的に上りきり、苦労の甲斐あって、Nakawan(ナカワン )山脈の全貌と、カキ・ブキッとその周 辺の素晴らしい景色を眺めることができました。 でも、辺りがすごく静かになっていることに気づ いて、急に奇妙な気分になり、僕はそこから下りることにしました。 機 下 っ て い る 間 、階 段 を 見 つ け る こ と が で き ず 、僕 は同じ道を歩き続けました。道に迷ったわけでは ないのですが、ぐるぐると同じところを歩き回って いたのでした。この場所が携帯電話の電波が届か ないところだったため、Googleaマップが使えず、 僕はパニックに陥りました。 機 僕は冷たい風が体に吹いてくるのを感じまし た。足元に注意を払わずにいたため、何かにつま ずいて転倒し、足を痛めてしまいました。出血していたので、数枚の乾いた葉を使って、傷口を覆いました。不安がよぎりましたが、こういうときこそ落ち着かなければなりません。僕は出血が収まったら、この場所を離れようと決めました。する と突然声が聞こえました。助かった! そして僕は階段を見つけました。間もなく、ケラム洞窟のスタッフに引率された大学生のグループが見えました。 機 階段から下りて来た僕を見て、スタッフは驚き の声を挙げ、上がとても危険であることを教えてく れたのですが、僕は危険だと書いてある看板が見 当たらなかったと説明しました。彼の話では、プロ の登山者の一行が近くの山で道に迷った事件が あって、彼らがなんとか道を見つけて降りて来た とき、そこは既に国境を越えたタイ側だったとのこ とです。 機 その事件の話を聞いて、僕は鳥肌が立ちました。 軽い怪我で済んだのはすごく幸運なことでした。 迷っていたのはたった10分だったにもかかわらず、僕は疲れきっていました。 かつてのスズ鉱山の町 下りきったところで、僕は公園に座っているおじ いさんに会いました。おじいさんは傷を負った僕 の脚を見て、ハイキングのときは気を付けるよう にと言いました。 おじいさん「カキ・ブキッには、昔はたくさんの蛇と か、危険な生き物がたくさんいたんだけど、最近 はほとんど見かけないな」 機そして続けて言いました。蛇は猫を恐れるのに、 猫は蛇を恐れない......。おじいさんは猫と蛇が闘 っている姿をよく見かけましたが、それはお互い死につながる可能性があります。どんなものにも 天敵というものは存在するものです。 おじいさん「スズ採掘のおかげで、カキ・ブキッは とても繁栄したんだよ。それにスズ採掘のおかげ で、私はここで生まれたんだよ」 機スズ鉱山の労働は過酷でした。おじいさんが子 供の頃、誰かが採掘場で突然亡くなったという話 をよく聞いたそうです。それでも、より多くの人が鉱 山で働くためにやって来ました。スズ採掘による輝 かしい日々、通りは明るく、多くの人で賑わっていま した。現在はコピティアム、食料品店、中薬専門店など、ほんのわずかしか残っていません。町は静ま り返り、その活気は失われてしまっています。 …… その後、話題はケラム洞窟に移りました。おじい さんは、ケラム洞窟はとても「汚い」と言いました。 それは幽霊が出るという意味です。彼はいつも「そ の存在」を目にするとのことです。特にバスケット ボールコートで、彼らがバスケットボールをしてい るのをよく見るそうです。また、たまに眠れない夜 に外の新鮮な空気を吸おうとしたとき、家の前を 歩いている姿を見かけることもあるそうです。 雨の日は友達作りの日旅で出逢う人は、運命の人、
全ての出逢いは、懐かしい再会。 …… 僕のマレー語は大丈夫! 機突然、灰色の雲が立ち込め、間もなく土砂降りに なりました。僕は小さな小屋に走って行くと、そこ には2人のおばさんと1人のおじさんがいました。 僕たちは雨が降っている間、小屋で一緒に雨宿りしました。彼らはとてもフレンドリーで、僕に食べ物 をお裾分けしてくれました。突然の土砂降りのこと など忘れて、僕たちは一緒に楽しく食べたり、おし ゃべりしたりしました。彼らは僕のマレー語がうま いとほめてくれました。そう、マレー語はマレーシ アの公用語で、僕は幼い頃から話しています。僕は 10年間マレーシアにおらず、それほど話していま せんでしたが、まだ忘れていませんでした。 ディン「私たちは2人ともaKotaaTinggi(a コタ・ティ ンギ)出身で、姉に会いにaTaiping(a タイピン)に 来たんだ。今日は姉がここに連れて来てくれたん だよ」 ノナ「ここで1人で何してるの?」 FuFu「a 僕は今バスでマレーシア北部を旅行して いるんです。車を持っていないので、クアラルンプ ールからバスに乗って、タンジュン・マリム、ビドー、 タパー......、そして今日はここ、タセッ・ラバンに 来 ま し た 。 こ の 後 、 P u l a u a P i n a n g (a ペ ナ ン ) 州 、 Perlis(a ペルリス)州、Kedah(a ケダ)州に向かいま す。今日は会えて、嬉しかったです」 ノナ「今どきバスで旅行する人なんているの? マレーシアで? 面白いし、魅力的ね!」 僕の日本語も悪くない 機雨が小降りになると、2隻のボートがゆっくりと 桟 橋 に 近 づ い て 来 ま し た 。僕 た ち は 2 つ の グ ル ー プの人々がこちらに歩いて来るのを見ていました。 ガイドの付いた日本人のカップルが、言葉が通じ なくて困っているようでした。日本に留学していた 僕は、すぐに彼らを助けに行きました。 機 僕が大阪と広島に留学していたと知って、夫の 宗大さんはどちらの街にもよく行くので、日本に来 たらいつで遊びに来るように言いました。彼はまた、タセッ・ラバンで釣りをした写真と、この日の 釣果、そして日本から持って来た釣り道具を見せ てくれました。雨が止み、僕たちはaFacebookaの連 絡先を交換した後、宗大さんと奥さんは別れを告 げて、去って行きました。 KokaHeng(a コッヘーン)さんの送迎 機 車 が バ ス 停 ま で 来 て い ま し た 。運 転 手 は 桟 橋 に来た他のグループのツアーガイドでした。彼の 名前はコッヘーンでした。彼は僕がカンポン・バ ル ・ サ ウ ッ に 戻 る こ と を 知 る と 、イ ポ ー に 行 く 途 中、その村を通るので、車に乗せてくれると言い ました。 車の中から、彼は僕が宗大さんとおしゃべりし ているのを見ていたそうで、僕がマレー語と日本 語の両方を使いこなしていることに驚いていまし た。コッヘーンさんは日本人観光客向けのレクリ エーション・フィッシング市場を開拓しようとして いて、通訳を探していました。確かに人里離れた 場所に行って釣りができたら、どんなにいいでしょ う。僕はコッヘーンさんに会えてラッキーでした。 僕の夢が叶いますように。 …… タセッ・ラバンへの半日旅行は実に実りあるも のでした。僕は息を呑むような景色を楽しんだだけでなく、予期せぬ大雨のおかげで、生い立ちも 関心も異なる3組の人々と親交を交わすことがで きました。 機 雨の日もそんなに悪くないことを知りました。中 国の諺に「下雨天留客天(雨の日は友を留めよ)」 というのがあります。僕はそれに別の一節を付け 加えます。「雨の日は友を留めよ。さればさらに友 来たる」。もしかすると、この雨は「計画的」だった のでしょうか? 機 さよならはありません。僕たちは再び会う機会 があると確信しています。そして、それが人生を面 白くします。 …… 図書館訪問最後に図書館で借りた本って、まだ覚えてる?
…… 『カンパー100年1886-1986』 機カンパーは、かつて非常に危険な場所であり、 立入禁止区域であったと述べられています。鉱業 が発展する前は、野生動物や植物に満ちた深い 森林に囲まれていました。採掘調査のために周辺 を探検した多くの人々が、2度と戻って来ないとい うことがしばしばありました。探検に出ても、適切 な診断や治療が受けられず、病気に屈してしまっ たのです。 機 僕たちの祖先は、カンパーの探索や開発に命 を捧げ、道路や家を造りました。彼らは、人口の増 加を支えるために、さらに鉱業を盛んにし、インフ ラの基礎を築きました。暮らしぶりが次第に良く なるにつれて、客家語で「禁浦(カンパー)」、立入 禁止区という意味の町の名は「金寶(カンパー)」、 金と宝による繁栄という意味の名に変わりました。 こうして、今カンパーは繁栄の地として知られるよ うになりました。 若い女性は写真を撮るのが大好き 機60年代のカンパーは非常に保守的でした。ファ ッショントレンドがより露出度の高い服に変わっ ても、女性たちはその流行を追うことができませ んでした。そんな中、彼女たちは日にちを決めて 集まり、スカートをはいてカンパーの一番有名な 庭園で会うというアイデアを思いつきました。スカ ートを紙袋に包んで庭園に向かい、着いたらそれ に着替えればいいのです。 機 彼女たちは写真を撮り終えたら、また着替えて 家に帰ります。普段は露出の多い服を着ることが できないので、それらを身に着け、写真を撮ること で満足でした。この活動は広まっていき、間もなく 週末の多くの女性の流行となりました。当時、白黒 写真の現像は1枚あたり1ドル、カラーだと1.5ドル かかりました。当時は高価でしたが、多くの女性が写真を撮りたがりました。 機他にも写真を撮るのが好きな人たちがいまし た。既婚の女性たちは、悪運を写真に吸い取らせ るために写真店に行きました。彼女たちはギャン ブルに行く前に、カメラに悪運を吸収させる必要 があると強く信じていました。そうすることで、カジ ノで勝つことができました。果たして、こんな魔法 が通用するのでしょうか。 機 しかし面白いことに、しばらくすると、女性たち は勝敗にかかわらず、自分の写真を撮ってもらう ために写真店に行きました。きっと撮られるのが クセになったんでしょうね。 カンパーの塹壕とその記憶 機カンパーは、第二次世界大戦の影響を直接受 けてしまった町でした。飛行機、弾丸、爆弾、兵士の行進がカンパーの静けさを乱しました。イギリ スと日本の戦争中、地元の人々はカンパーの町か ら逃れました。 機 第二次世界大戦前から、日本人はカンパーにス パイを送っていました。カンパーに来た彼らのほ とんどは、日本製品を売る店、富裕層や王族のた めの私立学校、写真店、さらには情報を収集する ための売春宿まで経営し、周囲の地形を詳しく知 り、地図を描き、カンパーとつながるルートに精通 しようとしました。 機 娼婦は全員日本人で、全部で10人いました。そ こ で は マ ッ サ ー ジ と ス パ サ ー ビ ス が 提 供 さ れ 、売 り上げは好調でした。裕福な人々、特にイギリス兵 はそこに行くのが楽しみでした。 機 その娼婦が奉仕をしているとき、彼女たちはし ばしば「どの部隊の出身?」、「責任者は誰?」、「どこに駐屯しているの?」、「どのくらいそこに駐屯し ているつもり?」、「部隊数は全部でいくつ?」、「あ なたの部隊は何人?」などと尋ねました 。これらの 質問は会話の中で自然に行われたようで、兵士た ちは知らず知らずのうちに秘密を漏らしてしまっ たのでした。 機 日本のスパイが経営する写真店は、カメラや印 画紙のほとんどが日本から輸入されており、写真 を現像する人々を惹きつけるために安い価格で 販売していました。ほとんどの場合、顧客は金銭的 に余裕のあるイギリス兵で占められていました。 彼らは、どこにいたか、誰と一緒だったかといった 情報を日本人が写真から収集するのを、間接的に 許していたのです。 機 写真店のスパイは、重要だとみなした写真を数 枚焼き増しし、それらの写真はその先の計画のために日本に送られたのでした。 …… |
AuthorLam Ching Fu Archives
January 2024
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